フェノバルビタールという薬品名で使われる、史上2番目に古い抗てんかん薬があります。百年前から使われている薬で、今ではほとんどタダのような薬ですが、いまだに開発途上国では最も重宝されています。投与量が大まかでよく、有効血中濃度が広いので使いやすい薬です。てんかん発作が痙攣発作とほぼ同義語の社会では、これほど心強いものもないでしょう。てんかん発作の中でも痙攣発作を抑制する力は抜群で、我が国でも脳外科の手術後などにも注射剤としてよく使われます。既に先進国では第一選択薬として使われていませんが、今でもこれがなくては発作が十分抑制できない患者さんは少なくありません。
なぜ第一選択薬でないかというと、その副作用のためです。程度に差はあっても眠気が必発で、脳機能低下をきたします。眠気は一方で発作を誘発する原因でもあります。かつて抗てんかん薬の種類が少なかった時代、この副作用を抑えた誘導体が試された時代があります。私は20年以上前、ペレストロイカ直後の混乱期ロシア北方領土から、医療協力として何人かの患者さんを大学病院で受け入れたことがありました。当時、ロシア人医師が使用していた薬の中に、薬学の本にしか表記のないバルビツレート誘導体の薬が何種類もあり、驚いたことを覚えています。日本でも同様の時期があったようですが、私が医師になってからも抗てんかん薬として生き残っていたフェノバルビタール以外のバルビツレートは、プリミドンだけです。
プリミドンは体内で代謝されるとフェノバルビタールに変化します。元のプリミドンも代謝されたフェノバルビタールにも抗てんかん作用があり、二段で効くのです。結局フェノバルビタールになるのだから副作用は同じと考える医師も多いのですが、血中濃度を測定すると、代謝が早いはずのプリミドン濃度の方が代謝の遅いフェノバルビタール濃度よりも高い人が少なからずいるのです。そして、こうした人に特徴的なのは、かなり眠気が少ないのです。かつての先輩医師から教えられた既に古参となった医者たちは、こうした使い方を用いて一部の患者さんの発作抑制に役立ててきました。
新人のてんかん専門医にこうしたことを十分教えてこなかったのも悪かったのかもしれませんが、次第にプリミドンの市場は縮小したらしく、新薬発売が相次ぐ中で採算が合わないこの古い薬を何度も中止したいとてんかん専門医に製造会社から打診される時期がありました。当然、これに古い医者たちは抵抗しました。マイソリンという商品名でかなりその会社の思い入れの入った名前でしたが、同社のクロバザムの商品名マイスタンと間違われることがあったらしく、薬品名プリミドンがそのまま商品名と同一になり、更に新しい抗てんかん薬の発売が相次ぐ中で、最大手のジェネリック医薬品会社に製造プラントごと売却されたと聞きました。
さすがにこの時は大丈夫かと気を揉む時期がありましたが、製造継続された事は患者さんのために良かったとも思われました。しかし、その後、今回のジェネリック医薬品メーカーの不祥事です。決められた製造過程や検査過程を無視して生産されていた薬が多いことが判明したのです。調べるとこうした事がジェネリック医薬品メーカー何社にもわたっていました。他の薬にまぎれた形ですが、プリミドンも製造中止となり、再三の製造延期に見舞われて生産されていません。この中で市場の在庫はとうに底をついています。供給不安に曝されて生産調整されている薬は少なくないと聞きますが、先発品が高いとか安い後発品がないなどの問題ではありません!他に代替薬のない患者さんがいることを医薬品メーカーは社会的責任としてどう考えるのでしょうか。古くても必要な薬を安定供給するべき行政の責任は問われないのでしょうか。
近くの調剤薬局には前もってプリミドンの在庫をかき集めてもらいましたが、すでに残り少なくなってきました。やむなくプリミドンをフェノバールに置き換えざるを得ない状況に追い込まれています。かなり慎重に変更しても痙攣発作が出現する患者さんが事実いるのです。今まで10年近くも発作なく通院している患者さんに、薬剤変更による発作出現の危険性が生じることを告げた際、不安に涙を浮かべる患者さんを見ると、この国の医療も落ちてきたのかと言いようのない憤りを覚えます。発作によって何度か失職経験があり、プリミドンで発作が抑制されていた患者さんが、薬剤変更中に痙攣発作が何度か出現したと電話連絡があって心配しましたが、再診時、「こんな事で負けられるか!」と啖呵を切られてやや救われた思いがしました。