2020年6月11日木曜日

匿名の隠れ蓑

匿名、アノニマスという言葉は昔から精神科の世界でよく使われてきました。社会的に氏名を明かすことができない人々が匿名で自助組織を作るのは、アルコール依存症の人々から始まったと思われます。今では薬物依存、ギャンブル依存、摂食障害、引きこもりなど各種依存症や精神障害で悩む人々の自助組織もできています。いずれも社会から奇異な目で見られる人々が匿名で集まり、互いに励まし支え合うための組織です。

その後、私がアノニマスという言葉に出会ったのは、インターネットがオープンで楽天的であった時代、すなわち今のようなセキュリティを常に考えなければならない危険地帯でなかった時代に、色んなツールやデータを公開してくれるアノニマスFTPサーバ上でした。ここでは、善意に満ちた管理者からかなりお世話になったものです。

いずれも、匿名という言葉のイメージは悪いものではありませんでした。しかし、今では匿名と言うと、SNS投稿の隠れ蓑になっています。実名を公表することなく、全世界に向かって好きな事を言うために使われています。他人を中傷し、ネットで炎上させることが問題になっており、自殺者まで出る深刻さです。あたかも、人として卑怯とか卑劣という言葉は死語になってしまったように感じます。

自分の手を汚さず、スマート爆弾で人殺しをする権力者が、テロリストを卑劣と罵っても白々しいですが、ハラスメントに満ちた現代社会では、自分が攻撃されるのに臆病でも、他人を安全かつ徹底的に攻撃することが卑劣であるという感覚がないようです。人もやっていたからなどという言葉も聞かれますが、むしろ、被害者が加害者に転じている場合もあり、傷つけ、傷つけられることに慣れて鈍感になっているのでしょうか。

昔、私の恩師教授の先代であった内村祐之先生は、患者に対して卑怯な態度をとることを極度に嫌ったと聞いています。父、内村鑑三ゆずりの生き方が根底にあったのかもしれませんが、人としての在り方について、時々思い出すと自戒させられます。